一輪車と女の子

毎日同じ道を歩くことに、人は慣れている。私の場合、会社に行く道がそうだ。家を出て、背の低いマンションがある。小さいころはその駐車場で、一輪車やケンケンパをしながら遊んでいた。今でもよく覚えているのはその一輪車で遊んでいたある瞬間。確か母親もそばにいたはず。その駐車場には毎週生協のトラックが来る。少し坂の上にある我が家にとって、坂を下らずにものを運んでくれる生協の存在は、車を運転できない専業主婦である母親にとっては大きな味方だった。近所の奥様方との会話を弾んでしまい、私が家に帰っても誰もいないことが多く、その駐車場に様子を見に行ったことがたまにあった。そしてある時、私は一輪車に乗る機会があった。小学校の放課後、やたらと一輪車どにはが流行った時期があった。小学生にしては身長があった私は、タイヤがちいさくてサドルが高い赤色の一輪車に乗っていた。校庭をグルグルまわれるほどには乗れるようになっていたが、運動神経が良くて体育で目立っている人たちのようには乗れていなかった。これは大学に入ってスノーボードする時も一緒だった。特に銀ちゃんという体格もよくて心の広い少年の一輪車をよく覚えている。濃い紫色で大きなタイヤのその一輪車は、ひと漕ぎひと漕ぎが力強く、前進する際は戦車のように感じた。反対に私のひょろっとして不安定な一輪車姿は、か細く頼りないアメンボのようだっただろう。そんなわけで一輪車に乗ることはなんら難しいことではなかったのだが、母親たちの間では不思議な光景だったらしい。駐車場でやってみて、という話だった。シャイだった私はあまり気が進まなかったが、自慢したい気持ちも少しあり、「乗るよ」と、斜に構えていった。しかし家には一輪車がないので、誰かに借りなければならなかった。そのとき、たぶん生協の奥様方のメンバーの一人に、一輪車を貸してくれるという人がいたんだろう、持ってきてくれる話になった。するとそのお母さんは私のための一輪車と、一輪車に乗る娘を連れてきた。調度ひましていたんだろう、話したこともない、たぶん年上の女の子と私は一輪車をこぐことになった。大した話ではないが、ませたガキだった私はしっかり照れてしまった。なんともなさそうな相手の女の子の様子も少し腹が立った。あまりしゃべる子ではなったから、本来そうなのか、女の子も恥ずかしがっていたの子も知れないが、当時の自分にはわかりかねた。

2人は手をつないで一輪車に乗った。女の子と手をつなぐのも恥ずかしいし、それを母親たちに見られているのも恥ずかしかった。いつものようにふるまえず、一輪車もうまく乗れない。そのたびに、冷ややかだが差し伸べられるその小さな手に、触れたいのやら払いのけたいのやら、複雑な感情が胸をよぎった。早く終わらないかな、この気持ちだけは確かにあったはず。どんなふうに終わって帰ったのかも、その子の顔も、あまり覚えていないが、今でも会社に行くこの道を通る前に、ふと、そのことを思い出すことがある。