最高の看取り方

日本人の死因ナンバーワンといえばガン。放射線影響協会によると、1981年以降、首位を死守しているそうだ。がんで亡くなった近親者が身近にいない私は、もしかして日本においてはマイノリティーなのかもしれない。しかし、今後がんを患って見送ることになる機会はあるだろう。もしくは自分がガンを患う可能性は十分にある。

そんな状況の日本において、地上波のテレビ番組はよく健康を取り上げることになる。若者のテレビ離れが進んでいる今、テレビ局のターゲットは中高年だ。健康に不安を覚える人々はおぽげさに言えばわらもつかむ気持ちで熱心に健康番組を見ている。身近なもので、今までさほど脚光を浴びていない、それでいて「どこか効きそうなイメージの」食材を取り上げ、諸説ある、という注意書きを添えながら、医師をかたるものがつらつらと解説する。見たことのある光景だ。気軽に実行できるから、昨日テレビでやっていたのよ、という解説を挟みつつ夕飯の一品にささやかに入り込む。へぇ、といいながら違和感なくむしゃむしゃと食べる。スーパーでは飛ぶように売れ、それをテレビが取材する。「最近突然売れ出して。驚いています」

なにかばかげてはいるが、つまりはみな死にたくないのだ。こんなにも顕著にその感情が入り込んでいると変な感じだが、基本的に死にたくない、これに尽きる。家庭を持つものならばそれは大事なことである。養わなければならない子供をのこして死ぬことはもちろん望ましくない。しかし、目に見えないそのような「前提」は、時によって、場合によって、そして人によって、異なることを忘れてはいけない。

 

恋人からもらった本、第二弾『美しい距離』

 

主人公は保険会社に勤める40代の男性。彼には15年連れ添ったサンドイッチ店を営んでいた妻がいる。そして妻は余命いくばくもない進行したガンを患っている。この小説は夫が妻を看取る話だ。病院内の人々の目線やしぐさが細やかに表現されている。想像ではなく体験がもとになっていることはすぐにわかった。若くしてガンを患った身体の痛々しさと、がんを受け入れ、死に備える精神のしなるような強さ。妻の姿にわずかに落胆することもあるが妻の態度を尊重し、穏やかに受け止め支える夫。進む体の不調とは裏腹に、正を全うすることに尽力する妻の姿に、はかない思いをする。

そして介護にあたる夫が社会から受ける心無い言動も、実際にありえそうで胸がざわつく。

そのような言動の前提が「長生きするのが正しい」という社会通念だ。

繰り返すがこれは間違っていない。

 

早期発見をして手術を行うことが望ましい。それができなかった理由を物語として聞きたい、という欲求が世間に溢れているのを感じる。がん細胞が生まれた部位によっては早期発見がとても難しい、ということはよく知られている。しかし、それでも運河良ければ早期発見も可能だったわけで、最善の経過を辿ったとはこちらも思っていない。それを後悔しているかととわれると、悔いている心はあるとしか答えようがないのだが、それでも反駁したい。最善の道を辿ったいないとはいえ、何が最善だったのか未だわからないし、だれも最善の道を知らないだろうし、最善の道を歩かなくて何が悪い、という気持ちもある。自分たちは、ほかの誰とも違う、自分たちだけの道を歩いたのだ。」

 

人はどうしても自分の価値観で、物差しで測りたがる。それを前提にして、勝手気ままにしゃべる。夫は特に悪気がないが心無い言葉に直面するたび、自分に言い聞かせる。「妻なら、何気もなく返すだろう。」そこに、理想の夫婦の死に方と、看取り方があった。

 

ときどき、「遠くにいる人のことも、心で近くに感じればいい」という類の科白を耳にする。だが、なぜ近くに感じる必要があるだろう

 

淡いのも濃いのも近いのも遠いのも、すべての関係が光っている。遠くても、関係さえあればいい。

 宇宙は膨張し続けている。エントロピーは常に増大している。だから、人と人との距離はいつも離れ続ける。離れよう、離れようとする動きが、明るい線を描いている。

 

いかに感じられるか。淡々と妻の死を受け入れた彼の死生観。離れる距離を愛せる彼にとって、天国と妻との関係は、美しいものなのだ。